前頁へ 目次へ 次頁へ
活動報告

環境創造フォーラムの設立――創立大会参加報告を兼ねて

竹内 洋*

Abstract:This is a report of the first and founding conference of the Forum for Social-Human Environmentology held last October in Tokyo. The Forum is a NGO backed by the new faculty of the Daito-Bunka University, The Faculty of Environmentology. Its aim is to develop the practically useful knowledge to promote the ‘Sustainable-Reciclical Society'. In this paper I have tried to introduce the main concepts of the 'New Declaration of Human Environment' launched at the conference and give it some comments. The 'New Declaration' is one of today's strategies to achieve the ‘Sustainable-Reciclical Society', but there is a slight difference about who do it. Of course people must do it. But what kind of people are they? The answer of the 'New Declaration' is that citizens rehabilitated in modern context must do it and the university must be the incubator for such people.
(本稿は昨年10月に東京で開催された環境創造フォーラム第一回創立大会の参加報告である。同フォーラムはD大学の新学部である環境創造学部が後援するNGOであり、その目的は「持続可能な循環型社会」の形成を促進するための実際的知識の開発である。本稿では同大会で発せられた「新人間環境宣言」の基本思想を紹介し、若干のコメントを付した。「新宣言」は「持続可能な循環型社会」の実現のための今日の諸戦略の一つであるが、それを誰が実行するのかという点で相違点を持つ。人民がそれを実行しなければならないことはもちろんであるが、その人民とはどのような人々か?「新宣言」によれば、それは現代のコンテクストの中で再興された市民であり、大学が彼らの揺籃なのである。)

Keywords:environment(環境),citizen(市民),sustainable-reciclical society(持続可能な循環型社会),university(大学), education(教育)

 

第1節 問題

 高くはヒマラヤの中腹まで含めて、また低くは大深度の地下や深海まで含めて、今日、人工的要素を全く含まない生態系はほとんど存在しない。その意味で、「手つかずの自然の保存」を目指す環境運動はその範囲が極めて狭い範囲に限定されざるを得ないものだと言える。
 その一方、環境を人間にとっての有機的自然として把握するアプローチは経済発展に伴う環境の変化が様々な問題を惹き起こすや無視できないものとなっている。1992年のリオデジャネイロにおける「地球サミット」およびその後に策定された各「ローカル・アジェンダ」には環境をこの本来の意味で捉えようとするものが含まれている(1)。
 この種のアジェンダの登場とともに環境問題を自然環境の問題とのみ捉える見方は過去のものとなった。産業革命以来の経済発展が産み出した効果の総体が環境問題を構成していることが自覚されたのである。
 その中核を成すのが効率的な経済発展の条件として形成された都市の問題であることは言うまでもないであろう。さらにその根底には人間社会のあり方の問題がある。そのあり方が自然環境の悪化を含む諸問題を産み出している。
 それ故、課題は経済という人間の営みが産み出す諸問題を相互に関連づけることによって問題総体を整理把握し、そのうえで持続可能な世界をどう作るかについての処方箋を提出することである。
 2000年10月27日に東京で開催された「環境創造フォーラム」創立大会(2)もまたこの視角に立って問題を提起した。そこには環境問題に関心を持つ国会議員、自治体首長、大新聞の論説委員、中央および自治体の官僚、企業幹部などが多数参集し、今や、企業も人間と自然を収奪する立場から脱却しようと試みつつあることが示された。
 同フォーラムは東京に本部を置くD大学が新たに設置する「環境創造学部」が事務局となって運営されるNGOであり、その意味で環境問題への大学のアプローチの試みを示すものともなっている。また、その際あわせて、同学部は社会科学系の学部としてこの問題にアプローチすることも表明され、その意味でそれは従来の自然科学に傾斜したアプローチに対する新機軸を示すものともなった。
 そこに環境問題への新たな接近方法の萌芽を発見することができるかもしれない。本稿はそのような可能性を持つ同フォーラムの創立大会への参加報告を兼ねて、その創立の意義に迫ろうとするものである。
 そこで以下、まず当日のフォーラム創立大会の諸報告について簡単に報告し、引き続き、同大会で提起採択された「新人間環境宣言」の内容を紹介するとともに、若干のコメントを付すことにしたい。

 

第2節 環境創造フォーラム創立大会

(a)環境創造フォーラムの創立

 環境創造フォーラム(The Forum for Social-Human Environmentology)は、上記のように、東京に本部を置く大学の新学部「環境創造学部」の「社会貢献の一環」(環境創造フォーラム規約第2条)として設立されたものである。その目的は次のように明らかにされている、

 「本会は、《持続可能な循環型社会とは、発達した人間環境である》との認識に立ち、環境創造の視点から《持続可能な循環型社会形成》のための実践的な知の交流・発信を目的とする。」(同規約第3条)

 そして、この目的の達成のため、同フォーラムは次の五つの事業を実施するとしている。

「1.環境創造フォーラム大会の開催
2.ワークショップの開催
3.機関誌『環境創造フォーラム年報』および電子媒体を含む出版物の刊行
4.内外の研究機関等との情報交換および交流
5.その他本会が必要と認めた事業」(同規約第4条)

 10月27日のフォーラム創立大会とそこで行なわれたパネル・ディスカッションはここに示された目的の実現に向けた最初の試みである。そこには各界から次のような人々が参集した。すなわち、パネリストとして堂本暁子(参議院議員〔現千葉県知事〕、地球環境国際議員連盟世界総裁、世界自然保護連合副会長)、土井幸平(大阪市立大学工学部環境都市工学科教授)および山本孝則(大東文化大学経済学部教授、同環境創造学部設置準備委員)の各氏が、コメンテーターとして小倉昌男(ヤマト運輸前会長、ヤマト福祉財団理事長)および末村篤(日本経済新聞論説委員)の各氏が、それぞれ参集し、他に「エコ・マネー」の提唱者として著名な加藤敏春氏(通商産業省関東通商産業局総務企画部長)がメッセージ参加して、フォーラムに対するそれぞれの期待などを表明した。また、その中で、「新人間環境宣言――循環型市民社会形成のための知のベースと実践の指針――」が採択された。これらの人々によるパネル・ディスカッションの要点は次の通りである。

(b)環境問題への接近方法――市民の形成と都市の再構築

 初めに、パネリストの堂本暁子参議院議員、土井幸平大阪市立大学教授および山本孝則大東文化大学教授の三氏が、それぞれ「『環境の21世紀』は市民政治の世紀――日本の進路を考える」、「日本の都市環境と21世紀・環境都市のビジョン――『持続可能な循環型社会』の舞台を求めて」および「《新人間環境宣言2000》草案――循環型社会形成の意義と社会科学教育の転換――」と題して報告した。
 それらのうち、堂本議員の報告は、1972年にストックホルムで開催された「国連人間環境会議」以降の環境運動史を回顧する中で、「新しい地球環境ガバナンス」の形成に向けて「地球市民」が立ち上がりつつあること、その運動形式としてCSO(Citizen Society Organization)/NGO(Non-Government Organization)の比重が高まりつつあること、を指摘した。
 続いて報告に立った土井教授は、増加を続ける世界人口において都市人口が占める比率が1900年以降50年毎に28%、36%、45%と上昇推移し、2050年には推計で56%になること、その過程でエネルギー消費の大きい人口100万人以上の大都市が世界中で数え切れないほどに増加するであろうことを指摘し、環境問題の中心に都市の問題があることを明らかにした。またその際、同教授は、一方において資源やエネルギーなどを環境からの“Input”として受け入れるとともに他方においては大気汚染、水質汚濁などの「環境負荷」を環境への“Output”として排出する従来型の都市に対して、その“Input”と“Output”とを循環的に関連させることによって環境負荷の排出を最小に止める「自律環境都市」の概念を導入対置するとともに、その際に地方公共団体が果たすべき役割の重要さを次のように指摘した。

 「1992年6月ブラジル、リオデジャネイロ市で開催された国連環境開発会議いわゆる地球サミットはその重要な転換点となった。この会議で採択された文書“アジェンダ21”『持続可能な開発のための人類の行動計画』は“Sustainable Development”そして“Global Partnership”の2つのキーワードにより有名になり、地球環境問題は人類の後世代を巻き込みそして地球規模のひろがりで起き解決するべき問題であることが確認された。アジェンダ21の第28章『地方公共団体のイニシャチブ』は、諸問題及び解決策の多くが地域的な活動に根ざしているものであり、地方公共団体の参加及び協力が目的達成の決定的な要素になるとして、世界の地方公共団体は市民、地域団体及び民間企業との対話を行ない1996年までに『ローカルアジェンダ21』を採択するべきだとした。(下線は原著者による)」(土井[2000]1ページ)

 環境創造フォーラムは、このように、ストックホルム「国連人間環境会議」からリオデジャネイロ「地球サミット」を経て今日に至った環境運動史の線上に立って都市自治体と市民の役割を重視する点をその特徴にしている。
 以上の二報告を受けて次に山本教授が報告したが、それは内容的に見て、当日採択された「新人間環境宣言」のコンセプトを詳しく述べたものであった。そこで節を改め、第三報告および「新人間環境宣言」の意義について述べることにしよう。

 

第3節 「環境創造」のコンセプト

(a)創造される環境

 山本教授の報告は大会プログラムでは「循環型社会形成の意義と社会科学教育の転換」と題されていたが、当日配布された報告要旨ではそれは副題とされ、本題は「《新人間環境宣言2000》草案」(以下では単に「草案」と記す)となっていた。それ故、同報告は当日採択された「新人間環境宣言――循環型市民社会形成のための知のベースと実践の指針――」(以下では単に「宣言」と記すことがある)のコンセプトを詳解したものだと言うことができよう。
 報告は「A【問題提起】いまなぜ、『環境創造』なのか」、「B【問題解決へのアプローチ】忙しい時代こそ、急がば回れ!」、「C【循環型市民社会形成のための知のベースと実践の指針】」の三部から構成され、「A」「B」が総論、「C」が「宣言」各項の解説となっている。
 「A【問題提起】いまなぜ、『環境創造』なのか」および「B【問題解決へのアプローチ】忙しい時代こそ、急がば回れ!」は現代を「『経済規模至上主義の持続不能な社会』から『持続可能な循環型社会』への社会システムの一大転換」期と捉える。そのうえで、まず第一に、この世界を生きる人間が「自らの生存環境を創造する動物」として再定義される、また第二に、そのような人間は「自由な人格的主体性を希求する『市民』」でなければならないことが宣言される、そして第三に、そのような「市民」が創造するものが「循環型市民社会」として規定される。(「草案」1ページ)
 この「循環型市民社会」をどのようにして作り出すのかという問題への解答が「C【循環型市民社会形成のための知のベースと実践の指針】」である。それは全体として三つの部分から構成され、順に、問題を解くための「知のベース」の確定、社会科学の再定義、社会科学教育の新課題の提起、にそれぞれかかわるものとなっている。
 問題を解くための「知のベース」の確定は自然と社会との関係の再定義によってなされる。その際、第一に現代社会が科学技術の利用によって自然生態系を「徹底的に経済的資産(構築物、生産物在庫、農地等の人工生態系などの国富)に置き換え」てしまったこと、第二にそのことから従来は自然環境破壊の問題に深く結びつくことがなかった貧困や失業などの社会問題が国際金融、企業・自治体経営、公共投資などの問題場面を通じて密接不可分なものとしてかかわり合うようになったこと、の二点の認識が必要とされる。このような事態の中で自然環境と社会との従来の区別は消滅して「人間環境」という一つの概念の中に統合されるに至ったのである。(「草案」1ページ)
 それ故、「新人間環境宣言」は最初の三項で次のように宣言する。

「1.地球環境問題とは、自然の再生産力を破壊した人間社会(社会経済システム)の問題である。
2.現代の社会経済システムは、かつては別々のものと見なされてきた社会の問題と自然の問題とを『人間環境』という一つの問題にしてしまった。
3.現代社会のあらゆる問題を探る知のベースは『人間環境』である。」(「宣言」)

 このような対象認識は学に対しても再定義を迫るものになる。その根拠を山本報告は次のように明らかにしている。

 「20世紀の社会科学は、物事を『人間の意識から独立した外の世界』――外界――と捉え、外界の任意の諸側面を分析する社会解釈学であった。社会解釈学は、研究者の都合に応じて存在世界を細かに分断することにより精緻化されたが、『人間環境』という存在世界の全体を捉えることはできない。」(「草案」1ページ)(3)

 これまでの社会科学がこの規定性から免れていないとすれば、それもまた従来とは異なるものとして再定義されなければならない。山本報告はその新しい社会科学を「環境創造学」と命名している。その意義は次のようなものである。

「環境創造学とは、新たに発見された『人間環境』の全体像を基礎として、《発達した人間環境である“持続可能な循環型社会”の形成》にかかわる原理、手法、障害、主体、人類の経験を探求し総括する実践的社会科学である。」(「草案」1ページ)

 それ故、「宣言」は第4項として次のように掲げるのである。

「4.『人間環境』という確かな知のベースの上で、社会科学は環境創造学として再構築されなければならない。」(「宣言」)

 その実践目標である「持続可能な循環型社会」は、同じ根拠に基づいて、地球環境のみならず経済構造および人間関係の維持をも視野に含むものである。それ故、「宣言」は第5項において次のように述べるのである。

「5.環境創造学が目指す『持続可能な循環型社会』とは、モノとしての地球資源、カネの流れとしての経済および、人々の心の触れ合いという三つのモメントが応答的に循環する社会である。」(「宣言」)

 「宣言」本文ではこの第5項で初めて登場する「循環型社会」という語は周知のように今日の我が国の環境政策における基本概念の一つである。昨年2000年5月26日に成立し同年6月2日に公布された循環型社会形成推進基本法にも示されているように、それは我が国が今後において目標とするものだとされている。それがどのような社会を意味するのかについて同法は次のように規定している。

 「この法律において『循環型社会』とは、製品等が廃棄物等となることが抑制され、並びに製品等が循環資源となった場合においてはこれについて適正に循環的な利用が行われることが促進され、及び循環的な利用が行われない循環資源については適正な処分が確保され、もって環境への負荷ができる限り低減される社会をいう。」(循環型社会形成推進基本法第2条の1)

 同法はこのような社会を形成するため、国、地方公共団体から個々の事業者や個人に至るまでの国民各層に対してその果たすべき役割を具体的に明示し、上記の社会の実現を目指そうとするものである。
 「新人間環境宣言」のコンセプトはこの「基本法」のそれとは相違している。その点を「草案」は次のように述べている。

 「『循環型社会形成推進基本法』は、廃棄物の削減、再利用の促進を意図した画期的な法であるが、『人間環境』、『社会形成』の何たるかに関する議論が 自覚的に踏まえられておらず、未だ『社会形成法』にはなりえていない。」(「草案」1ページ)

 「新人間環境宣言」は「基本法」のこの限界を越えて進もうとする。それが目指すのは自然環境だけではなく経済システムも人間関係も維持されるような社会である。
 人間と自然との関係は一般に物質代謝関係として規定される。人間は自己の欲求を充足させるために労働を支出し、それに対して自然は生産物の供給源である。また、自然に対する人間の労働という関係は一般には自己の欲求の実現にとって適合的な道具を用いて行なわれるものであるが、誰でも知っているように、今日において諸個人はこの意味での生産用具を自ら作り出すことができない。各人はそれを商品として購入し、それを用いて小規模な生産活動を営むか、さもなければ、消費対象そのものを購入する他ないのである。それ故、人間と自然との仲立ちは今では道具一般ではなく商品なのであるが、その商品は貨幣と交換にでなければ取得され得ず、その貨幣は個人にとっては近代的な地代か利潤(利子を含む)か賃銀の何れかの収入として資本運動の中で取得されるものである。その意味で、自然と人間とを資本の運動機構である社会が媒介しているのであるが、この社会はかつての道具一般のように人間が自由に支配することのできる従順な手段でないことは周知のことである。むしろ、人間や自然の方が資本の運動の手段なのである。同時に、今日では、資本の運動が人間や自然の破壊の有力な原因であることも周知のことであろう。それ故、今日において言われる「循環型社会の形成」は社会のあり方の再定義を通じて人間のあり方を変えていくものにならざるを得ないのである。(4)「社会形成法」としての内容を持たない「基本法」は、その意味で未完成な法だということになるのである。  それに対して、「新人間環境宣言」はどのような社会を誰がどのようにして作るのかについても答えようとするのである。

(b)創造主体としての「市民」

 「草案」および「宣言」の前半に対して、その後半部分はそのような社会および社会科学の担い手は誰かという問題とその担い手をどのように育むかという問題とに充てられている。それは次の五項から構成されている。

「6.発達した人間環境=『持続可能な循環型社会』の形成主体は、社会の一員として働く市民である。
7.自治の基盤である都市は、発達した人間環境=『持続可能な循環型社会』の主要舞台である。
8.『持続可能な循環型社会形成』が市民のコンセンサスとして追求される社会では、会社企業、オカネ、資本は、発達した人間環境の創造手段となる。
9.発達した人間環境=『持続可能な循環型社会』の形成主体である市民の人格的陶冶が、教育の目標である。
10.『繁栄と破壊の20世紀』の極限を経験した日本は、『持続可能な循環型社会』の形成をめぐる国際競争において、自らの経験を普遍化することにより世界に偉大な貢献をすることができる。」(「宣言」)

 これは自然および人間の破壊として現象している現代社会の矛盾に対する処方箋である。すなわち、自然と人間との媒介者であった社会が資本の運動の機構となったことによりやがて顕在化するに至った矛盾に対して人間と自然との調和的な関係を再建するための条件を示したものである。
 その条件とは自治の担い手である「市民」を社会形成の主体の位置に取り戻し、同時に資本運動の主要素である「会社企業、貨幣、資本」を手段の位置に押し戻すことである。それらを手段として支配する者が「市民」であり、その「市民」によって作り出される社会は自治体である。そして、その「市民性」を育む「人格的陶冶」の過程が教育である。
 「新人間環境宣言」はここにおいて大学での社会科学教育の再編に結びつくものとなる。その目的は「宣言」において「市民の人格的陶冶」と規定されている。大学において果たされるべき「市民の人格的陶冶」とは何か。節を改めてこの問題を検討しよう。

 

第4節 大学の役割

(a)リベラル・アーツ・エデュケーションとプロフェッショナル・エデュケーション

 大学における教育が何より「リベラル・アーツ」に比重を置いたものでなければならないことは従来より指摘されてきたことである。その意義は「プロフェッショナル・エデュケーション」との対比において次のように規定することができるものであろう。ここではスコットランドの古い大学講義録から一部分を引用してみた。

 「目的としての人間の完成と手段または道具としての人間の完成とは同じことでないばかりではない、それらは実際においても一般的に対立する。そして、これら二つの完成は異なっているので、それらの獲得のために必要とされる訓練も同じではない、それ故、それらは別々の名称によって区別されてきたのである。前者はリベラル・エデュケーションであり、後者はプロフェッショナル・エデュケーションである、――これらの諸目的を求める知識の部門はそれぞれリベラルな科学および専門的科学、あるいは、リベラルな科学および金儲けの科学と呼ばれている。その後者は、ドイツでは通常Brodwissenschaftとして区別されている、それは次のように翻訳することができるであろう、すなわち、パンとバターのための科学である。」(Hamilton, 1865, Vol.I, p.6.)

 大学教育において常に意識されるべきことは、それ故、「何のためにその専門知識を修得しなければならないのか」ということになるのである。
 「新人間環境宣言」はそれを「市民の人格的陶冶」と定めた。それは現代社会における主要な人格性への対立物である。
 現代社会における諸個人の主な生存条件が地代、利潤(利子を含む)および賃銀の何れかの収入を得ることであることは既に見た。それらのうち、近代的地代を取得する人は近代的地主であり、利潤(利子を含む)を取得する人は資本家であり、賃銀を取得する人は賃銀労働者である。そして諸個人は、近代的土地所有の人格化として地主であり、資本の人格化として資本家であり、労働力の人格化として賃銀労働者である。現代社会の人格性は、その意味で、資本が作るこの社会のあり方によって規定されているのである。(5)
 「新人間環境宣言」はそれに対して「市民」という人格を対置した。「市民」とは社会形成の主体であり、自治の担い手であるような人間のことである。市民が企業、貨幣あるいは資本をコントロールする実践的能力を備え、自治の主体となって形成される社会が「発達した人間環境=『持続可能な循環型社会』」である。
 そこで社会科学教育もまたそのような「市民」を形成するための実践的教育に転化していかなければならないことになる。「市民の人格的陶冶」は、それ故、通俗的な意味での「人格陶冶」ではない。それは、現代人を資本家や地主や賃銀労働者という地位から本来の自由で主体的な存在に転化させるための過程であり、それを可能にする能力を育成するための実践的教育なのである。「宣言」はこの点で大学教育の転換に結びつくものになっているのである。そこで次に、そのような教育の場に自らを転化させようとしている新学部の教育内容の特徴の一端に進むことにしよう。

(b)環境創造学部の教育

 環境創造学部には「福祉環境」「都市環境」「地球環境(エコ・ビジネス)」の三つのコースが設置されている。そのコンセプトは同学部が発行しているパンフレット『環境創造学部――地球も、人間社会も一つに――』(Vol. 1,2)に紹介されている。ここでは、それらのうちから「都市環境コース」を取りあげることにしよう。
 同コースの教育目標は次の通りである。

 「みんなが自立した市民として生きられるアメニティ都市の創造と、新しい共同体としての都市の姿を考えていく人材を養成します。」(同パンフレット、9ページ)

 この教育目標は「問題発見」「問題解決の切り口」「問題解決のアプローチ」「何を身につけたらいいの」「ユニークな講義内容」および「進路」という一連の課程を通じて達成されるものとされている。この一連の課程は自分たちが住みたい都市の形成にとっての障害の発見からその障害の除去方法の修得までを含む。(パンフレット、Vol.2,5ページ)
 具体的なカリキュラムの内容は実践的である。「導入教育」では「環境創造学入門」「情報処理の基礎」「社会統計」「実用英語」「時事英語」「情報収集」「討論」「ディベート」「プレゼンテーション」等を、「基礎教育」では「市民社会と資本主義」「民法」「商法」「現代経済」「法制度概説」「環境政策と環境行政」「財務諸表」「金融」「社会法」「ビジネス創造」「生態学」「物質循環」等を、それぞれ修得する。ここでは、市民社会理論の基礎を学習した後は経済、経営・会計、法学・政治学等の既存諸部門から必要なことを学ぶというスタンスでカリキュラムが構成されている。(パンフレット,Vol.2,4ページ)
 「専門教育」は更に実践的である。そこでは次のような科目群が設定されれている。「都市問題」「都市計画」「土地・住宅問題」「財政」「公共事業・国土計画事業」「分権と集権」「広域生活圏」「地域研究(日本)」「地域研究(海外)」「町づくり原論」「不動産取引」「再開発・住宅関連ビジネスガイダンス」「中小企業と地場経済」「国内外町づくり事情研修」等である。(パンフレット,Vol.2,9ページ)
 進路としては次のような職種が想定されている、都市再開発のデベロッパー、コーディネーター、プランナー、流通業の出店計画担当者・地域開発担当者、金融機関の再開発事業担当者、町おこし、町づくり、地域活性化に関わる実務家等である。(6)(パンフレット,Vol.2,6ページ)
 ここでは大学と地域社会との結合が実践的なカリキュラムを通じて追求されている。その中で、単なる理念としての「市民」ではなく、実践的な能力を備えた生きた市民の形成が追求されているのである。それはリベラル・アーツ・エデュケーションとプロフェッショナル・エデュケーションとの結合である。すなわち、どのような人間を作るのかということとどのような社会を作るのかということとがどのような能力を修得するべきかということを決定するという関係で、両者が結合されているのである。

(c)自然科学と社会科学

 新学部のもう一つの大きな特徴は同学部がその目的を社会科学系の学部として達成しようとしていることである。次にその点について若干の考察をしよう。
 環境問題は、一般に大気汚染、土壌汚染、森林破壊、温暖化等の自然環境の変化として現象する。そのため、環境問題について最初に警鐘を鳴らすのが自然科学者であることは当然である。しかし、問題の原因が自然そのものにではなく人間あるいは社会の側にあることはやがて知られることである。そのとき、問題はその究極の原因は人間そのものなのか、それとも社会なのかということになる。
 問題は現在の中学社会科の授業内容にもかかわってくるであろう。中学1年「社会科」の環境問題の授業はどのような内容であろうか。
 例えば、東南アジアの森林破壊について次のような発問が考えられている。

 「熱帯林の破壊をくいとめ、保全するためには、どうすればよいのだろうか。」(東京書籍『新編 新しい社会 地理 教師用指導書』144ページ)

 この発問に対する素朴な解答は次のようなものであろう。

 「アジアで最大の森林資源消費国である日本の木材消費量を少しでも減らすため、私たち日本人は紙を無駄遣いしないようにしなければならない。」

 それに対して、ここで私たちの国民経済が何故、どのようなシステムの中で資源の大量消費を続けてきたのかという問題に焦点を移すと問題解明の度合いは著しく深まるであろう。そのとき、答は次のようになるであろう。

 「私たちの国民経済を資源の大量消費をしなければならないような仕組みからそうでない仕組みに転換しなければならない。」

 ここで問題は人間と社会との何れが悪いのかということの理解にあるのではない。この問題を解決する責務を何故に個々人が負わなければならないのかということを理解させることである。ここには対象と意識との関係にかかわる古くて新しい問題があると言えよう。
それはまた自然科学と社会科学との相違にもつながる問題であろう。
 自然科学的な認識と社会科学的な認識の相違を対象と意識との関係に着目して見るとそれは次のようなものだと言うことができる。前者において対象は自然であり意識の側には人間が立つ。この関係において対象は一般に所与であり人間が産出不可能なものであるから、その関係は意識が対象を知るというかかわり方で開始される。この関係が認識である。そして対象が意識内の像と同じであればそれは知られたことになり、そこから応用が可能になる。他方、対象が正しく知られていない場合には、そのことを経験が知らせることになり、そこから意識と対象との一致に向けての過程が再び開始されるが、その過程は意識の側の修正ということにならざるを得ない。
 他方、近代社会は根源的に人間が産出したものであるから両者の一致は対象である社会の変化によっても達成され得るものである。だが、この関係は今少し複雑なものである。そのことは自然との物質代謝における人間と道具との関係について見ると直ぐに明らかになる。すなわち、自然との物質代謝関係においては人間が本来の主体であり、彼が目的を立て、その目的の達成にとって適合的な道具を使用するのであるが、その際、道具をどのように用いるかということは道具の性状によって規定される。それ故、人間は道具を支配すると同時に道具によって支配もされるのであるが、この道具は人間の目的の変化によって取り替えることができるものである。このような関係は先に見た物質代謝関係における人間と社会との関係にも適合する。社会もまた取り替えられ得る道具なのである。このとき、社会の研究は二面になる。所与の法則の発見と別の法則を持った新たな社会形態の探求とである。前者の研究態度は自然科学のそれと同じであろう。それに対して後者は違っている。その場合には、対象と意識との不一致は対象の側の変化によって達成されるのである。

 

第5節 小括――「市民」の形成と大学

 そのような対象の変化を必要とする不一致とは何であり、どのような性質を持つのであろうか。最後にその点に触れて結びとしよう。
 この問題を解く鍵は既に見た人間と自然とそれらの媒介である社会との関係の裡に潜んでいる。今日では、この三者の関係は社会が資本の運動機構であることによって矛盾であることを露呈している。自然が資本蓄積の資源や廃棄物保管庫であること、人間が資本の人格化された諸要素であること、これらは今や継続困難となっているのである。そのことは、自然は自然だということを当の自然自身が主張し始めていること、人間は人間だということを当の人間自身が主張し始めていること、を意味する。それは、しかし、人間と自然との物質代謝関係の単なる復興が求められていることを意味しない。求められているのは今日の段階におけるその復興である。それを如何に推し進めるかが問題なのである。
 このとき、課題は人間と自然との関係において根源的な能動性の位置にあった人間を新たな能動性として陶冶し復興させることに他ならない。具体的には、人間と自然との間における支配する媒介項である資本とその機構に対して新たな人格性を対置すること、資本の主体性に対して人間の主体性を対置すること、である。
 今日の環境論議は、この論点についてどのような解答を提起したであろうか?環境運動の担い手が人間であることは自明である。しかし、それが単なる欲望の担い手であるに止まるならば、そこから出てくる答は欲望の制限に止まる他ないであろう。そして欲望の制限は資本蓄積の推進と矛盾せざるを得ない。それ故、この観点に止まる限り、現代社会の未来は次の二つのうちの何れかであろう、すなわち、資本蓄積の推進による行き詰まりか、それとも資本蓄積の制限による行き詰まりか、である。
 環境運動を担うのはどのような人格なのか?――これが根本的な問題である。人間の再定義が必要なのである。この新たな人格性を「新人間環境宣言」は「市民」と規定した。それは都市の自治の担い手たるべき人間である。この「市民」という能動性が環境問題を解決し、「持続可能な循環型社会」を形成する主体とされたのである。この観点から大学教育も再定義された。それはこの「市民」を養成する場にならなければならない。それは社会科学教育の転換によって果たされるべきものなのである。


(1)一例として、1995年に公表されたイギリス・マンチェスター市の「ローカル・アジェンダ」である Manchester: A Sustainable Future(Local Agenda Forum 21) を挙げておこう。この小冊子は快適な人間環境としての都市の再生が環境問題解決の鍵であることをはっきりと示す重要な文献であるが、その意義の紹介については紙幅の関係もあり本稿では触れない。
(2)環境創造フォーラム創立大会は2000年10月27日(金曜日)午後3時から東京ガーデンパレスで開催され、各界から約80名が出席した。なお、東京都板橋区長は代理出席となった。
(3)20世紀社会科学史の意義については、有井、長島編(1995)参照。
(4)これは新たに構想された社会形態に諸個人を単に適合させるということではない。矛盾を露呈することによって変化の必然性を示しつつある社会の中では諸個人も従来のあり方で存立し続けることはできない。その過程の中で諸個人は自らも変化しながら新たな社会形態を産み出す主体として成長していくのである。それ故、ここでは社会が人間を規定するのではなく、矛盾のただ中で自己形成を成し遂げる人間が社会を形成するのである。
(5)有井(1987)、163―4ページ参照。
(6)ここに挙げられた「デベロッパー」以下の職種の幾つかは周知のように日本の「バブル」の担い手だったものである。新学部の教育はそれらの質的な転換を通じた社会の本格的なリストラクチュアリングをねらっていると言えよう。

 

文献

有井行夫『マルクスの社会システム理論』,有斐閣、1987年7月.
有井行夫,長島隆編『現代認識とヘーゲル=マルクス』,青木書店,1995年12月.
大東文化大学環境創造学部(2000)『環境創造学部――地球も,人間社会も一つに――』(Vol.I,II),2000年10月.
土井幸平(1999)「日本の都市環境と21世紀・環境都市のビジョン――『持続可能な循環型社会』の舞台を求めて」,環境創造フォーラム創立大会,2000年10月.
堂本暁子(1990)『立ち上がる地球市民 NGOと政治をつなぐ』,河出書房新社,1995年4月.
堂本暁子(1999)「『環境の21世紀』は市民政治の世紀――日本の進路を考える」,環境創造フォーラム創立大会,2000年10月.
Hamilton, Sir William(1865),Lectures on Metaphysics and Logic,Vol .I, 1865. 環境創造フォーラム(2000)「新人間環境宣言――循環型市民社会形成のための知のベースと実践の指針――」,環境創造フォーラム創立大会,2000年10月.
環境創造フォーラム(2000)「環境創造フォーラム規約」,環境創造フォーラム創立大会、2000年10月.
Local Agenda Forum 21(1995),Manchester:A Sustaianble Future,1995.
Marx, Karl, Das Kapital, Bd., I, 1867, Marx-Engels Werke, Bd. 23, Diez Verlag, 1984, 岡崎次郎訳,『資本論』第I部,『マルクス・エンゲルス全集』第23巻,1965年9月.
東京書籍『新編 新しい社会 地理 教師用指導書』
山本孝則,篠原章(2000)「環境創造学事始め――転換する世紀と社会科学像の転回――」,大東文化大学『環境創造論文集』1999年.
山本孝則(2000)「《新人間環境宣言2000》草案――循環型社会形成の意義と社会科学教育の転換」,環境創造フォーラム創立大会,2000年10月.
循環型社会形成推進基本法,2000年6月2日公布.
(2001年1月30日脱稿)

 

* 宮城教育大学教育学部社会科教育講座

 

前頁へ 先頭へ 目次へ 次頁へ