環境教育にもとめられるもの
〜紀要刊行に寄せて〜
青木 守弘

環境教育実践研究センター長

環境教育の重要性がうったえられ、各地で環境をテーマとする研究会やシンポジウ ムが開かれ、多くの実践事例が報告されているが、これといった明確な方向は見えず、 むしろ混乱した状況にある。環境教育の推進に向けた多くの努力があるにもかかわらず 、正直なところ、期待とはうらはらに環境教育はあまりうまくいっていないのが現状で ある。自分自身、この数年間、少なからず各地での環境教育関連の研究会に出席する機 会があるが、その都度なんとも言えぬ欲求不満を繰り返している。もちろん、環境教育 のありかたとして定説があるわけではなく、全国津々浦々で展開される子ども達の実践 活動に敬意を払うものであるが、なぜか素直に受けとめることができず割り切れない気 持でいる。子ども達の小さな善意と親切の背後に、大人達の現実の姿が見え、大きな矛 盾を感じるからである。しばしば、その取組みは目先の環境問題教育に片寄り、近視眼 的な結果対応型の教育に陥りがちである。こと学校教育においては、環境問題が基本的 に何に起因するのか、物的・精神的な両面における環境問題の背景とその発生環境の学 習こそが求められるべきものであろう。もちろん、新たな領域としての積極的な取組み が、児童生徒にさらなる負担を強いることでは本来の環境教育の趣旨からはずれたもの である。ましてや、低学年の子どもたちに学習段階の配慮なしに、いきなり複雑で難解 なシステムで生じているグローバルな地球環境課題を扱ったとしても、それは従来の教 室授業と同様、断片的な知識の強制的な教え込みを繰り返すことになる。

 多様で幅の広い環境教育の全ての領域をカバーすることは困難である。本センターの 取組みはどちらかと言えば、身近な自然界のシステムの理解に向けて、自然体験なり フィールドワークのトレーニングを通して、環境教育への筋道を探ろうとしている。環 境学習に求められる児童生徒の感受性を育てるには、自然の教育力によることが最も効 果的であり、かつ、内面にひびく感動を引き出すものといえる。自然を体験することに より、自然界のしくみとその成り立ちに触れ、新たな発見と驚きに出会うことができる。 ただし、自然体験学習には専門家による導入が不可欠であり、フィールドワークに際し 適切なガイドと指導がなされなければならない。この点で教員養成カリキュラムにおい て野外科学的なトレーニングを身につけた教員の輩出が望まれるのである。本センター は、環境教育の土台となる地域自然を活用したフィールドワークの拠点を県内各地に設 け、学校教育への活用とともに地域の生涯教育をも視野においたフィールドミュージア ムの実践と支援に力点をおいている。その意味では、本センターの活動は環境教育の効 能を説いたり、学校教育における即効的な教材を提供するものではなく、環境教育を進 めるにあたって基本となる自然への認識と環境を意識させるための実践的な教育にある と言える。

 人間の飽くなき欲望の代償として環境問題がある。快適な生活と利便性の追及が自然 環境に負荷を与え、共存すべき生物生態に一方的な圧力を与え、自然界におけるさまざ まな平衡を破ってしまったことに原因がある。その問題の解決に向けて、個々人の身の 回りから地球的な規模に至るまでの取組みが求められている。しかしながら、現実に繰 り返されているように、解決への努力はややもすると他人行儀で必ずしもスムーズに展 開していない。このことは環境教育を進めるにあたっても同様な場面に出会うことが多 い。一体なにが障壁となっているのであろうか。それは人間が本性として持っている欲 と身勝手さからくるもので、自分さえよければよい、自分一人くらいは・・・といった 誰しもが抱くエゴにもとずくものである。個人、マイホーム、企業、地域、自治体、そ して国などのそれぞれのレベルのエゴに加え、地球自然に対する人間のエゴを通した結 果として今日の自然環境の破壊がある。人間の英知は科学技術を発展させ物質的な豊か さを手に入れてきた。しかしながら、その営みは人間の精神面での向上をともなったも のであったのだろうか。物質的な豊かさの享受は心の豊かさを失い、むしろ、エゴむき だしな精神構造を助長させてはいないだろうか。「地球にやさしい」「環境にやさしい」 のスローガンが不必要に氾濫し、環境教育があたかも社会的正義としてまかり通ってい る感すらある今日である。難しいことではあるが、真の意味で「エゴ」から「エコ」へ の姿勢転換が求められなければならない。


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